ジムの歴史

槍の笹崎

創設者 笹崎たけし
創設日 1946年12月
出身 北海道空知郡歌志内町
デビュー 1934年5月1日
戦績 115戦72勝26KO28敗11分
引退試合 1950年2月18日
  1996年8月逝去(享年81歳)

 

戦前、戦後にかけて「拳聖」ピストン堀口の好敵手として「槍の笹崎」の異名で一時代を築く。昭和16年5月の堀口戦は「世紀の一戦」といわれ、日本ボクシング界では伝説の試合として語り継がれている。

選手育成では、ファイティング原田を世界王者に育てたのはあまりにも有名な話。その他、12連続KO勝ちのムサシ中野、アントニオセルバンテスに善戦したライオン古山、フラッシュ・エロルデに4戦4勝の金子繁治、ミドル級の海津文雄を東洋チャンピオン、日本チャンピオンには斎藤清作(後の芸人:たこ八郎)、ファイティング原田の実弟、牛若丸原田ら多数輩出。

1915年 3月25日 北海道空知郡歌志内第二本町に笹崎家次男として生誕。
1920年 幼少時代は手のつけられないガキ大将として過ごす。
1929年 北海道滝川で薬屋に奉公。
1930年 北海道旭川でパン屋に奉公。
1932年 札幌に出て「つばめスキー会社」に勤務。仕事の傍、札幌市立体育館にてボクシングを学び道内のアマチュアボクシング界で頭角を現す。
1933年 ピストン堀口に憧れ上京し。蒲田の姉(田中ゆき)の家に同居、田中熱器KKに勤務しながら日本ボクシングの元祖、目黒の日本拳闘クラブの渡辺勇次郎の許に入門。
1934年 5月1日 唐沢靖欣(太陽)とのデビュー戦に判定勝ち。この年は5勝。
1935年 この年6戦全勝。10月徴兵検査のため北海道に帰郷、甲種合格。
1936年 函館重砲に現役入隊、2年の兵役。
1938年 現役除隊後、2月~7月迄試合に出場し9戦全勝。8月には日支事変に召集。南支那、広東、汕頭に赴く。
1939年 11月 南支で左目失明、戦地病院を転々とする。
1940年 2月に北海道旭川病院で兵役免除。軍曹で傷夷軍人として帰郷。4月に上京後、5月に結城敏夫とカムバック戦。その後、9戦全勝。6月8日 笹崎家の父親「笹崎沢吉」63才で死去。7月には日本拳闘クラブの師匠、渡辺勇次郎夫人の勧めにより杵屋錦五郎の許で長唄を習う。ここでのちの伴侶となる中村季(すえ)との運命の出会い。
1941年 5 月28日両国国技館で「世紀の一戦」といわれたピストン堀口との対決。昭和10年より16年間この試合迄26連勝であった。戦前の予想は絶対「笹崎有利」 と言われながら減量の失敗と緊張のあまり1R早くもダウン、槍のストレートで堀口をだじろがせ一歩も退かぬ激闘であったが、4R見える方の眼にパンチを貰 い両目見えず遂に6RTKO敗。6月には目黒碑文谷1丁目に家を購入。弟、弘と二人で住むこの家が現在への源であった。12月8日大東亜戦争開戦。
1942年 季と2年間の交際後、目黒雅叙園にて結婚式、新婚旅行は湯河原温泉に。
1943年 1月17日、二葉朝二(拳道会)との試合を最後に1回目の引退。1月より日本火熱KKに勤務、公務課長となる。
1944年 弟「笹崎弘」は日本大学卒業後学徒出陣で出征。7月には米国の爆撃機B29の爆撃を受け、自宅の隣まで焼けたが幸運にも自宅は延焼しなかった。後に疎開。
1945年 山梨県富士吉田に疎開。8月15日、大東亜戦争敗戦。終戦となる。9月には疎開先から焼け残った碑文谷の家に帰る。
1946年 18 年後半から20年まで、敵国のスポーツとしてボクシングの試合は禁止になった。7月6日日本拳闘株式会社が「世紀の一戦の再戦」と銘打ってピストン堀口と の再戦を興行。後楽園球場で2万5千人の観衆の前でピストン堀口が1回転のダウンという名場面があったが、結果は引分けの判定。この試合で自信を深めボクサーとしてカムバックする決心をした。8月には勤務していた日本火熱KKを退社し自宅の近所、碑文谷の畑の中(現在のサレジオ教会の隣接)にあった馬舎を 安藤栄蔵氏の好意で無料で借り50坪程の広い馬舎を修理してジムを作り弟子を指導した。12月には多くの練習生および後援会の方々、渡辺先生を始め関係者 に祝福されて立派な道場開きをした。このジムの外壁には「世界選手権獲得!!」と書かれていた。
1947年 8月15日、日本初の全日本選手権決勝(対二階冨士夫)の当日、13日朝に味噌汁の鍋で大火傷を負った長男が死亡したが試合に出場して3RTKO勝。8月31日には決勝で内藤哲夫に勝って第1回全日本ライト級チャンピオンとなる。
1949年 12月、金子繁治が新潟から上京し入門。内弟子として同居、住込みボクサーとして激動のボクサー人生の一歩が始まる。
1950年 11月、笹崎拳闘興行KKを設立。12月16日「星野和雄(フライ級)」「金子繁治(フェザー級)」第8回新人王獲得。
1951年 5 月5日、現在地目黒区鷹番3丁目に笹崎ボクシングホールを開館。昼はトレーニング場、夜は芝居、色物、浪曲等の興行を催す。5月中旬、笹崎義弘(姉の長 男)が中学2年で北海道歌志内より上京後、入門。義弘の父親が戦死したため、姉一家全員が上京。8月には碑文谷の自宅を売って笹崎ボクシングホールの隣に 自宅とジムを新築。ようやく一日中トレーニングが出来るようになる。10月12日、後楽園野球場にて引退式。36才。通算戦績115戦72勝 (26KO)28敗11分3エキシビジョン無判定、26連勝記録保持。
1953年 11月7日、「笹崎義弘(バンダム級)」第10回新人王獲得。12月6日、「金子繁治(フェザー級)」ラリー・パターン(比)に勝ち日本初の東洋フェザー級チャンピオン獲得。
1954年 12月6日、「名和田孝(フライ級)」「今井源(ウェルター級)」第11回新人王獲得。
1956年 3月11日、「寺沢伸治(フェザー級)」第13回新人王獲得。6月28日、日本ボクシング界の祖、渡辺勇次郎死去。
1958年 原 田政彦(後のファイティング原田)三田精米店に勤めながらジムに入門。14才。11月金子繁治引退。再度の網膜剥離のため、6回の防衛を果して東洋王座を 返上し引退した。71戦54勝(33KO)10敗1分6エキシビジョン。後に金子ジムを設立。12月21日「篠沢佐久次(ライト級)」第15回新人王獲 得。12月笹崎座を閉館、26年から芝居等を興行した笹崎ボクシングホールも途中、笹崎座と改名し座敷の客席で雰囲気も良く大衆演劇の役者が15日交替で 住み込んで生活していた。中でも一番の出世頭は三波伸介氏であった。
1959年 11月16日、海津文雄がダウソン・シンガロップ(タイ)に勝って東洋ミドル級チャンピオン獲得。12月20日「島村謙三(フェザー級)」 「河野寿(ミドル級)」第16回新人王獲得。
1960年 12月24日、「原田政彦(フライ級)」第17回新人王獲得。 この後リングネームをファイティング原田に。
1961年 12月26日「谷地沼勝男(フライ級」「関戸宏晴(ライト級)」第18回新人王獲得。
1962年 9 月、下田蓮台寺にキャンプ場を完成。タイトル前のトレーニング合宿に利用、温泉もあった。10月10日、ファイティング原田はポーン・キングピッチ(タ イ)に11RKO勝ちして世界フライ級チャンピオン獲得。わずか19才で白井義男に次いで2人目の世界チャンピオンとなる。12月28日、斉藤清作が野口 恭(野口)に勝って全日本フライ級チャンピオン獲得。12月、斉藤登が前溝隆男(不二)に勝って全日本ミドル級チャンピオン獲得。
1963年 1月12日、ファイティング原田はバンコクに於てポーン・キングピッチ(タイ)とリターンマッチを闘い惜しくも敗れ世界フライ級チャンピオンを失う。
1964年 斉藤清作引退。43戦34勝(11KO)8敗1分。引退後、由利徹の弟子となりコメディアン「たこ八郎」として活躍したが60年7月24日、44才で水死事故。7月、笹崎ジム移転。
1965年 2月8日、篠沢佐久次が渡辺亮(帝拳)に勝って全日本ウェルター級チャンピオンとなる。5月10日、海津文雄が金田森雄(帝拳)に勝って全日本ミドル級チャンピオンとなる。5月18日、ファイティング原田がエデル・ジョフレ(ブラジル)に挑戦、見事勝って世界バンタム級チャンピオンとなる。一般の下馬評がジョフレに大勢を占めた中、大金星で二階級制覇をなしとげた。11月30日、ファイティング原田がアラン・ラドキン(英)と闘い、第1回防衛戦に勝つ。12月20日「原田勝広(牛若丸原田:バンタム級)」「西一夫(Jライト級)」第22回新人王獲得。
1966年 5月31日、ファイティング原田がエデル・ジョフレ(ブラジル)と再戦、見事に勝って2回目の防衛戦をものにした。12月26日、「新開徳幸(フライ級)」「首藤等(ライト級)」第23回新人王獲得。
1967年

1 月3日、ファイティング原田の第3回防衛戦の相手はジョー・メデル(メキシコ)。38年に一度敗れているメデルに、はっきり勝って防衛戦を飾った。1月8 日、ムサシ中野がアビデス・シチラン(タイ)に12RKOで勝ち東洋ウェルター級チャンピオン獲得。当時の佐藤首相官邸にファイティング原田と訪問。3月 19日、牛若丸原田が斉藤勝男の計量失格で全日本バンタム級チャンピオンとなる。7月4日、ファイティング原田の第4回の防衛戦の相手はベルラルド・カラ パロ(コロンビア)。防衛記録をのばす。7月19日、海津文雄が日本タイトル防衛後、返上して引退。75戦54勝(23KO)19敗2分。(H2年7月 25日、52才で死去)。12月18日、「古山哲夫(ライオン古山:ライト級)」「浅野英二(スナッピー浅野:フライ級)」「小山繁幸(サルトビ小山:バ ンタム級)」第24回新人王獲得。3人同時に同ジムから新人王獲得の快挙は、H3年に輪島ジムが獲るまで23年間なかった。

1968年 2 月27日、ファイティング原田はライオネル・ローズ(豪)との世界バンタム級タイトルマッチに敗れた。12月12日、現在地、目黒区鷹番に5階建ての笹崎 ボクシングビルが完成。12月30日、「草薙英雄(Jウェルター級)」「岡部義光(タートル岡部:ミドル級)」第25回新人王獲得。
1969年 2 月26日、ムサシ中野がフェル・ペトランサ(比)に勝って東洋ウェルター級4度目の防衛のあと引退。43戦35勝(24KO)5敗3分13連続KO記録保 持。4月9日、ライオン古山が浦和洋一(東海)に勝って日本ウェルター級チャンピオン獲得。7月20日、ファイティング原田がウエイトをフェザーにあげて チャンピオン、ジョニー・ファメション(豪)に挑戦、シドニーで試合をしたがホームタウン・デジションで、疑惑の判定により敗戦。
1970年 1月6日、ファイティング原田がジョニー・ファメション(豪)と日本で再戦したが敗戦。4月29日、ファイティング原田がボクシングの聖地「後楽園ホール」で多くのチャンピオンに送られて引退式。63戦56勝(23KO)7敗25連勝記録保持。後にファイティング原田ジムを設立。12月26日、「遠藤健司(バンタム級)」第27回新人王獲得。
1971年 2 月1日、サルトビ小山が原田武夫(クラトキ)に勝って全日本Jフェザー級チャンピオン獲得。2月24日、タートル岡部が星野哲雄(進光)に勝って全日本ミ ドル級チャンピオン獲得。その後、笹崎たけしは全日本ボクシング協会会長に就任。12月26日、「加藤吉孝(ブル加藤:ウェルター級)」第28回新人王獲得。
1973年 6月8日、スナッピー浅野が江藤清一(熊谷)に勝って全日本Jフェザー級チャンピオン獲得。
1974年 1月4日、牛若丸原田が三政直(横浜協栄)に勝って全日本フェザー級チャンピオン獲得。
1975年 12月28日、「加藤政博(ライト級)」第32回新人王獲得。
1976年 4月、牛若丸原田が引退。70戦36勝(14KO)20敗14分。
1977年 10月27日、ライオン古山が畠山昇(野口)に敗れ引退。55戦38勝(27KO)13敗4分。後にライオンズジムを設立、会長となる。
1986年 4月26日、笹崎ボクシングジム会長を勇退。名誉会長となる。笹崎義弘(堀義弘)が替わって会長となる。
1988年 3月、ファイティング原田が全日本ボクシング協会会長に就任。
1991年 12月21日、「神藤太志(フライ級)」第48回新人王獲得。
1992年 日本プロスポーツ大賞功労者・文部大臣表彰を受ける。
1995年 4月、笹崎季 笹崎ボクシングジムの会長に就任。
1996年 8月 笹崎たけし 永眠(享年81才)。
2006年 1月、佐久間俊治マネージャーが笹崎ボクシングジムの新会長に就任。
2007年 4月、吉田健司、日本フライ級暫定王者獲得。同月27日正規王者に昇格。
2007年 7月、吉田健司、日本フライ級タイトルマッチ初防衛戦勝利。